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第47話:酒田の夕日

◆芭蕉もみた「酒田の夕日」
お国自慢といえば、なんといってもふるさと酒田の夕日です。夏から秋にかけての日本海に沈む夕日の美しさは、それはそれは格別なもの。若いときは「誰をも詩人にさせるほどの」と形容してその美しさを讃えていました。それが齢六十に近づくと、遠くふるさとを思いながら、かつて身を包まれたほどの夕日の美しさと寂しさの正体は、憂愁の思いを超えた、「西方浄土」への願いのようなものであったのではないかと思うようになりました。

これは日本画家小野竹喬によるもので、芭蕉が『奥の細道』の旅で、酒田の日和山から、眼下の日本海の落日を詠んだ
 「暑き日を海に入れたり最上川」
を絵にしたものです。
この色調はあくまでも小野竹喬の色調。それよりも、芭蕉が日和山に立ってこの句を詠んだことを、絵の構図から確認できます。上から日本海に沈む夕陽、その下に延びる宮之浦、さらにその下に流れる最上川。それはかつて子どもだったころ、何度も芭蕉と同じ視点で日本海の落日を望んだ「変わらぬ風景」ということです。

◆山折哲雄の解釈
宗教学者の山折哲雄は『鎮守の森は泣いている』の中で、芭蕉の「暑き日を海に入れたり最上川」は最高傑作と説き、芭蕉にとって「酒田の落日」は特別な意味をもっているといいます。そもそも日本人は皆「落日に西方浄土をイメージする文化的遺伝子」を持っているそうで、そうした意味から芭蕉はきっと、真夏の日本海に沈む落日を見ることを、旅の重要な目的にしていたであろうとまで推測しています。日本海の落日の美しさと寂しさに西方浄土のイメージを重ねる山折哲雄の解釈は、なるほどと納得できます。

◆ボースの慟哭
次に『奥の細道』から時代は220年ほど下った、1920年代(大正末~昭和初年)のこと、犬養毅やアジア主義の頭山満らの支援を受けて、日本に亡命していたインド独立運動家ラス・ビハリ・ボースが講演のために酒田を訪れ、日本海の落日を観たという記録が残っています。それは案内役の大川周明(酒田出身)で、自伝『安楽の門』にこう記しています。

「往年の真夏のこと、夕暮れから舟を最上川に浮かべ、夕日に映える鳥海山を海上から眺めるために日本海に出た。ボース君は夕日の美しさに打たれ、長い間黙然と見入って居たが、やがて夕日が静かに紺青の海に沈み去ると、突如『ああ、寂しい』と叫んで、声を挙げて泣いた。私はボース君の慟哭は無理もないと思った。真夏の日本海の入日は、その限りない美しさと寂しさとによって、実に人の腸を断つ。私は母の長逝を聞いた時、静かに西海に沈む夕陽を想い浮かべ、同時にボース君の慟哭をも想い起こした。」

ボースはふるさとベンガルに残した大切な人を思い出して、思わず慟哭したのでしょうか。そして大川周明は亡き母を想い出すときは、必ず日本海の落日を重ねて想うのでしょう。そうした思いを掻き立てる「酒田の夕日」は大切にすべき「自然遺産」のようなもの。いつまでも人の心に残る「変わらぬ風景」であってほしいと願うばかりです。


※山折哲雄『鎮守の森は泣いている』PHP研究所(01年)
※大川周明『安楽の門』、「大川周明全集第一巻」岩崎書店(昭和36年)より
 日本主義、アジア主義の思想家。北一輝と親交があり、東京裁判で唯一民間人としてのA級戦犯になるも、精神病として訴追免除。3度の獄中生活では必ずコーランの翻訳など多数の著書を執筆している。「志士にしては学問があり過ぎ、学者にしては情熱があり過ぎる」とも評された。酒田出身者で私にとって気になる人物のひとり。
※中島岳志『中村屋のボース』白水社(05年)
 大正5年、日本に亡命したインド独立運動家ボースは、新宿中村屋の相馬愛蔵にかくまわれる。のち相馬家の娘婿となり、新宿中村屋のインドカリーはボースが考案したもの。孫文と同様、当時アジア主義の頭山満らの支援の下、全国に「アジア主義大講演会」として遊説。
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