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第59話:宮沢賢治と法華経

◆賢治の「宗教性」
宮沢賢治の世界を理解する上で、縄文文化に通ずる自然観(第58話参照)のほかに、仏教とりわけ「法華経」を軸とする「宗教性」を無視しては考えられないとよくいわれます。賢治を『雨ニモマケズ』から想像する二宮金次郎のような実践的モラリストとして捉えていた私には、いきなり「宗教性」といわれても意外な気がしました。それが齢五十を過ぎたころ、仏教に興味をもち始めると、なるほどそうなのかと思いながら、賢治の童話を読むようになりました。

たとえば『銀河鉄道の夜』には、現実の世界と夢の世界と、それからいわば仏教でいう死後の世界との接続が、実に見事に描かれています。銀河を走る列車そのものが大乗仏教の「大きな乗り物」を象徴しているという見方もできます。そうかと思うと、列車の乗客によって信ずる宗教が違えば死後の「理想の世界」が違うように、それぞれ降りる駅が違う様子も描かれ、仏教を中心にすえながらも、宗教上の普遍的なテーマを賢治は提示しているようにも読めます。

◆「法華経」の修行者
興味をもつにつれ、人生37年の足跡をたどると、実際の賢治は「法華経」のひたむきな修行者であったことが分かってきます。こうした賢治に対して、法華経信仰を基とする「法華文学」を志向した作家という評価もあります。ところが賢治は、作品の中では「法華経」のことを決して声高に主張することもなく徹底して謙虚です。むしろ「法華経」の教えを隠喩として作品にちりばめているスタイルに、深い思想と高い品格が感じられます。ここで「法華経」の教えとは一言で「菩薩行(ぼさつぎょう)」です。わかりやすく言えば「相手が何を考えているかを察して、自分を粉にして相手を救済する」ということ。『農民芸術概論綱要』のなかの有名な一節「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」は、まさに「菩薩行」の精神だと理解できます。

◆晩年の「菩薩行」
賢治の生涯の中で、「菩薩行」の信念を最もつよく感じるのは昭和6年賢治35歳の年です。それは18歳に発症した肋膜(結核性胸膜炎)が悪化してついに病に伏した年にあたります。それまでの小康状態を幸いに東北砕石工場と嘱託契約を結んだ矢先、石灰肥料と壁材料の開発のために東奔西走した疲労がつもり、出張先の東京で倒れてしまいます。9月21日死を覚悟し両親に遺書を書いた賢治は寝台列車で郷里に運ばれ、以後病臥のまま著作や相談業務をこなしたそうです。実はこの年は大変な年、満州事変が起こり世相に暗い影を落とし始めた年でした。さらに岩手県は冷害豪雨のため凶作という最悪の年。岩手の農業は冷害との戦いの歴史、賢治はなんとか力になりたいとつよく思っていたことでしょう。そんな中での11月3日、手帳に記した詩が『雨ニモマケズ』でした。賢治は「デクノボウ」と呼ばれてもまさに菩薩(救済者)であろうとした人でした。

翌昭和7年、賢治36歳。すでに死を覚悟した賢治が、救済の回答として書きあげたのが童話『グスコーブドリの伝記』ではなかったかと思います。主人公の少年ブドリは、飢饉のさなか家族の離散を経験します。働き場所を得ながら自分で勉強し、師匠といえる人物に出会い成長してゆき、最後は自分を犠牲にすることで多くの農民を冷害から救うという物語です。当時の賢治の思いを重ねて読むとよけい感動します。

徹底して謙虚な宮沢賢治という人は、立派な童話を遺したいと思っていたのではなく、社会に役立つためには自分は何をすれば一番よいのか、いつもそればかりを考えていた、まさに「菩薩行」の実践者だったのだと思います。賢治は昭和8年9月21日永眠、享年37。両親に遺書を書いた日からちょうど2年後でした。賢治の願いが通じたのか、その年の岩手は豊作だったそうです。



※宮沢賢治(1896~1933)
賢治は「明治三陸大津波」の1896年(明治29年)に生まれ、「昭和三陸大津波」の1933年(昭和08年)に亡くなる。37年の生涯のなかで、岩手県には凶作の年が何度もあった。
※宮沢賢治「法華経の修行者としての年譜」
18歳のときに読んだ島地大等の「漢和対照妙法蓮華経」に感動し、浄土真宗徒の父親を押切って24歳には日蓮宗系の「国柱会」に入信。35歳に手帳に記した『雨ニモマケズ』の次頁に「南無妙法蓮華経」と記す。37歳で亡くなるときは「国訳妙法蓮華経」1千部を翻刻して知己に贈るように遺言する。
※宮沢賢治『宮沢賢治万華鏡』新潮文庫(平成13年)
※『もう一度読みたい宮沢賢治』別冊宝島1463号(07年)
※梅原猛『日本人の「あの世」観』中公文庫(93年)
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