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第76話:世阿弥に学ぶ(その2)

「時分の花」と修業のありかた-----

◆修業時代の「若さ」
鍼灸師の資格をとって2~3年のころでしょうか、治療した患者さんの喜ぶ顔に、ある程度の手ごたえを自分なりに感じるようになりました。ふとそこで「鍼灸」をわかったような気になるものです。すると師匠からは「自分の技量に合わせた患者さんを治療しているだけのこと、そこを勘違いして天狗になるな。」としっかり釘を刺されます。習いたての頃はとにかく「若さ」が武器であり、勢いと気概(根拠のない自信)だけが自分の味方。ところが、やがて難しい患者さんと遭遇して壁にあたることで、実はその「自信」は「慢心」と紙一重であったことに、否が応でも気づかされるのです。

ひとつの技術を習得していく過程で、「若さ」と「実力」をはき違えることは、伝統医療としての鍼灸の世界に限らず、たとえば「能」という芸道の世界でも取り上げています。世阿弥の『風姿花伝』を紐解いてみると、一時の(表面的な)輝きを「時分の花」と呼んでいました。

◆「時分の花」
世阿弥は、能における美を「花」という言葉で象徴的に表現します。能は身体を用いて「花」を表現する芸術。稽古を重ねていくことで、壮年になって到達できる理想の花を「まことの花」と呼びます。

『風姿花伝』では、成長とともに変化していく「年々去来の花」について説き、たとえば少年期であれば、清新溌剌(はつらつ)とした外見上の美しさがあって、何をどのように演じても「花」があると称賛されます。それを「時分の花」と呼ぶのです。

この「時分の花」は実力的には未熟にもかかわらず、そういう未熟さを隠してしまうほどの魅力に溢れています。しかしそれは時が過ぎれば消え失せてしまう儚い「花」であり、「まことの花」とは違うもの。それが分からないで、自分がもう一人前になったと勘違いしてしまえば、そこで芸の行き止まりになる、と世阿弥は諭しています。



◆「花は心、種は態(わざ)」
世阿弥は、少年の自然の美しさを「時分の花」と呼び、それが失われたのちに恢復(かいふく)される壮年の本質的な美を「まことの花」と呼んでいることになります。そして、このふたつの「花」にはさまれた空隙こそが、修業の期間ということにもなります。

能は「わざ(=演技)」という身体表現を用いて「花」という「心」を表現する芸術です。稽古で「わざ」を重ねることは「花」が咲くように「種」を蒔くようなもの。つまり世阿弥が説く「花は心、種は態(わざ)」とはそうした意味になります。

◆基本稽古の大切さ
注目すべきは、世阿弥が稽古について「時分の花」の頃であれば、謡うこと、舞うこと、という二つの面を中心にするべきで、物まね(役に扮する演戯)をさせるべきではないと力説しています。つまり、ひたすら基礎の技術、すべて形(身体)を使った基本稽古が大切というわけです。

鍼灸の修業時代をこれに照らしてみると、ツボを探すこと、鍼をうつこと、お灸をすえることなど、ひたすら基礎の技術を磨くことが大切なことは経験上実感しているところ。特に患者さんの身体に触って、体表の変化やツボの所在をつかむ触診技術を磨いてゆくことがとても重要です。頭に入れた治療理論は、患者さんの身体を触診するなかで検証して初めて自分のものになってゆくものです。考える「頭」も大事だけど、確かめる「手」はもっと大事ということ。したがって、世阿弥が「花(心)」を希求するアプローチとしては、すべて「形」(身体を使う稽古)から入って「心」へ向かう、という指摘はとても大事なポイントなのです。

このように、鍼灸という伝統医療における修業の観点からみても、世阿弥の教えは示唆的で、とても参考にすべき事柄が多いのです。(つづく)

※『日本の名著:世阿弥』中央公論社(昭和44年)
※世阿弥著『風姿花伝』野上豊一郎/西尾実校訂・岩波文庫(1958年)
※林望著『すらすら読める風姿花伝』講談社(2003年)
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