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第80話:逆説=『abさんご』が教える「漢字のちから」



◆漢字あってのツボ
ツボ(経穴)は「漢字文化圏の世界遺産」のようなもの、と常々思っています。というのも、ひとつひとつが漢字で命名されているからです。漢字はそもそも「表意文字」。「形のちから」、「音のちから」、「意味のちから」が具わっているということ。もしこれが「かな」や「アルファベット」などの「表音文字」であったなら、ツボには「音のちから」しか期待できないことになります。大事なことは、漢字に具わる「形」と「音」と「意味」とはそのまま「気を動かす要素」ということ。

たとえば『奥の細道』にも記載がある「足三里」というツボは、お灸や鍼をすることで脚を軽くし、胃のはたらきも調えるという効果があります。もし「足三里」が「あしさんり」や「アシサンリ」であったり、WHO世界基準による「ST36」〈胃経(stomach meridian)の36番目のツボ〉であったなら、施術する側の「気」の込め方にどうしても違いが出るような気がしています。ツボはあくまでも「漢字」あってのツボなのです。

◆漢字が少ない『abさんご』
ところで最近、芥川賞を受賞した黒田夏子の『abさんご』が話題になっています。文章は横書きで句読点がカンマとピリオドを使い、漢字を極力さけた「ひらがな」中心の文章です。なにやら作者は「漢字排除論」とか「かな文字論者」のようなことなのかどうか、わからないままにとにかく読んでみました。

aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから,aにもbにもついにむえんだった.

冒頭からこんな文章で始まります。しかしいくら読んでも内容が頭に入ってきません。視覚に入る「ひらがな」の単語を頭で逐次漢字に変換している作業がもどかしく、いっそ「ひらがな」そのままで理解しようと試みたところで、まるで顔の見えない人と対峙しているようなもの。読めばただただストレスが貯まるだけ。結局わたしは『abさんご』を1頁も読めずに断念してしまいました。ところが・・・

aという学校とbという学校のどちらに行くのかと、会う大人たちの口々に聞いた百日ほどがあったが、聞かれた小児はちょうどその町を離れて行くところだったから、aにもbにもついに無縁だった。

こんなふうに「ひらがな」を「漢字」に置き換えた文章にしてみると、なんなく普通の速度で読め、難解といわれる文章もなんとか頭に入ってきます。だったら最初からそうすればよいのにと、ついぼやきたくなります。

◆漢字の顔がみたい
メディアで紹介される『abさんご』の読解法は、おしなべて「音読」を勧めています。ただし、表音文字である「ひらがな」のもつ「音」をじっくり味わってもらおうとする作者のねらいがそこにあったとしても、それは「かな混じり漢字」を基本とする日本語に限定した問題にすぎないこと。他の言語に翻訳すれば、そのねらいはなんの意味もなさないといえます。

読了してもいないのに、声高に評論めいたことは言えませんが、ただひとつ言えることは、読めばストレスが貯まるとはいえ、それでいて「顔」としての漢字をますます渇望している自分に気づかされるということ。逆説的な言い方をすれば、わたしにとっての『abさんご』は、むしろ「漢字のちから」を改めて認識させてくれる作品といえます。

◆漢字のちから
その「漢字のちから」を発揮しているのは、日本漢字だけがもつ「音と訓」だとにらんでいます。音を聞いたときは何だか分からないけれども、漢字をみれば一遍で分かります。たとえば「足」という漢字なら、二つの顔を備えています。一つは「ソク」という音(おん)。古代中国から借用した「音」がだんだん日本化したもの。もう一つは「あし」という訓。それこそ「足」という文字が表す日本語の「意味」を示すという具合です。

漢字に具わる「形」と「音」と「意味」とはそのまま「気を動かす要素」と冒頭で述べましたが、日本の漢字だけにある「音訓」というはたらきを加味してみれば、実は本場中国よりも、日本は「漢字のちから」をより最大限に活用している民族といえるのかもしれません。

※黒田夏子『abさんご』:『早稲田文学5』(12年9月)より
読んでも頭に入らないという経験は、仏国のヌーヴォーロマンの翻訳ものを読んだとき以来のこと。
※水村美苗『日本語が亡びるとき』筑摩書房(08年)
亡びゆく日本語を語るなかで、益々日本語のよさが際立ってゆく。「かな混じり漢字」が日本語を世界一難しい言語にしているとしながらも、逆に一番美しい言語であると指摘。
※鈴木孝夫『日本語は国際語になりうるか』講談社学術文庫(95年
日本語だけにある音訓の効用として、庶民が使う言葉も学者が使う言葉も容易に結ばれるという指摘は納得。
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