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第83話:司馬遼太郎と庄内



司馬遼太郎の『街道をゆく』は、調べてみると1971年(昭和46年)から1996年(平成8年)2月に司馬が急逝するまでの25年間、『週刊朝日』に毎週連載していたようです。わたしが20代(70年代)の頃、『週刊朝日』はよく読んでいたのですが、当時『街道をゆく』の記事にはまったく食指が動かず、ほとんど読むことはなかったと記憶しています。

それがどうでしょう、『街道をゆく』の文庫版が出始めた、ちょうど40代の頃、かつては空気のように当たり前に接していた「ふる里の自然風土」が無性に懐かしくなった頃と重なります。いわゆる「生国(しょうごく)」に関わる歴史的事柄すべてが気になりだすと、忘れかけていた『街道をゆく』の世界がようやく理解できるようになったようです。

数ある『街道をゆく』の興味のある地域を、それこそつまみ食いをするように読んでいったのですが、ただひとつ気になったことがあります。それは、我がふる里「庄内」を取りあげていないことでした。たとえば庄内藩と西郷隆盛の深いつながりを考えても、司馬遼太郎が「庄内」に興味を示さないはずはないのです。

とそんなことを不満に思いながら、たまたま「街道をゆく29:秋田散歩」を読んでいると、下の文章に目が止まりました。不満はたちまち杞憂にかわります。そこには、東北を取材するならはじめに「庄内」に行きたかったという思いが綴られていたのです。なかでも「庄内」を東北の中でも極めて特異な地域として、一目置いてみていたことが改めて分かります。結局「庄内編」の執筆は叶わなかったとはいえ、司馬遼太郎がこうして特別な思いで「庄内」を捉えて構想を練っていたことが分かっただけでも、ふる里を遠くに思う齢に至った庄内人としては、大いに納得できるというものです。

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ただ、気になる土地がある。
庄内である。
都市の名いえば、鶴岡市と酒田市になる。旧藩でいえば庄内藩(酒井家十七万石)の領域である。ここは、他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている。
庄内は東北だったろうか、ときに考えこんでしまうことがある。
最上川の沖積平野がひろいというだけでなく、さらには対馬暖流のために温暖であるというだけではなく、文化や経済の上で重要な江戸期の日本海交易のために、上方文化の浸透度が高かった。その上、有力な諸代藩であるために江戸文化を精密にうけている上に、東北特有の封建身分制の意識もつよい。
いわば上方、江戸、東北という三つの潮目(しおめ)になるというめずらしい場所だけに、人智の点だけでいっても、その発達がきわだっている。
この「街道をゆく」をかきはじめたときから、庄内へゆくことを考えていた。が、自分の不勉強におびえて、いまだに果たせずにいる。  (「街道をゆく29」秋田県散歩より)
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終りのほうは、まるで含みをもった予告編のようです。ただ「自分の不勉強におびえて」という箇所をどう理解するかです。わたしの勝手な解釈ですが、この「戸惑い」の核にあるのは、たぶん西郷隆盛の扱いではなかったかと推察します。

西郷はいわばチェ・ゲバラのような革命家という見かたもできます。権謀術数に長けていたということ。というのも、1868年(慶応3年)12月に起こった江戸薩摩藩邸焼討事件の実行隊は、江戸市中取締り役であった庄内藩でした。ただそれには伏線があって、薩摩藩が庄内藩兵詰所に銃弾を撃ち込むという事件があり、実はその首謀者こそ西郷隆盛なのです。薩摩藩邸の焼討によって、幕府はついに討薩摩へと舵をきったことで結果的に戊辰戦争へと発展していったわけですが、むしろ逆に、薩摩藩が倒幕の大義を得るために仕組んだ謀略説という見方もできます。したがって西郷が戊辰戦争の後、庄内藩に冷遇すべきところを逆に寛大な処置を取った事情をどう解釈するかは、権謀術数に長けた西郷隆盛の人間像に関わることとして、司馬遼太郎は慎重にならざるを得なかったのではないかと想像してます。

※司馬遼太郎『街道をゆく29:秋田県散歩、飛騨紀行』朝日文庫(09年)
秋田で最初に訪れたのは象潟の蚶満寺。芭蕉ゆかりの蚶満寺の住職は司馬の戦友。
※庄内と西郷隆盛の深いつながり
庄内藩は会津藩と同様、幕府側についたいわゆる「朝敵」の立場。戊辰戦争の戦後処理では当然冷遇されてしかるべきところを、西郷隆盛は温情をもって庄内藩士に接してくれたことから、庄内では今でも「南洲神社」を建立するくらいに西郷隆盛を崇拝する人は多い。ちなみに岩波文庫にもある『西郷南洲翁遺訓』は庄内藩士が編纂したものである。
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