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第85話:音のちから、声のちから



◆不思議な「お経」
子どもの頃のわたしは、お坊さんの読経が流れると、なぜかうっとりするほどに聴き入ってしまう(変な?)子どもでした。生家の菩提寺は曹洞宗。とりわけ好きな「お経」があって、それは「なむからたんのー・とらやーやー」と、ゆっくりとした経文で始まり、終盤に入ると「そもこーしどやー・もこしどやー」などと、不思議な言葉がリズミカルにたたみ込んでは盛り上がっていきます。木魚の一定の連打に加えて時折「ジャーン」と鐘の音がこだまするものですから、「お経」というよりまるで「音楽」を聴いている感覚です。クラシックでいえば世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」みたいな感じか、いやいやこれはピンクフロイドあたりの「ロック」に近いかもしれないと思わせるほど、わたしにとっては、とにかく魂を揺さぶられほどの不思議な「お経」といえるのです。

◆魂を揺さぶる理由
この「お経」が「大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)」と分かったのはずいぶん大人になってからです。経文の意味などもちろん分からないのに、「こころ」を離さないというか、魂を揺さぶるのはどうしてでしょうか。その理由はたぶん経文がもつ「音」の力だと想像します。というのも、この「大悲心陀羅尼」は、全文が陀羅尼(だらに)で構成されているからです。仏教には「霊妙な音」を凝縮した、真言、陀羅尼(だらに)、もしくはマントラと呼ぶ呪文の存在があります。それは、もともとサンスクリット語で書かれた経文を、中国で漢訳する際に「音」そのままを残すために、同音の漢語で以て音訳したものです。なにやら魂が揺さぶられていたのは、きっと陀羅尼(だらに)がもつ「霊妙な音」の力に感応していたせいだと思うのです。

◆密教、そして空海
仏教のなかで、「音」に着眼するのは密教です。密教はそもそもヒンズー教の「タントラ」という教義を取り込んだ仏教。その「タントラ」によれば、宇宙で見たり感じたりする「物質」はすべて「聖音(オーム)」というひとつの基本音から派生したものであると考えます。

さらに日本では、「音のちから」や「声のちから」にいち早く気付いたのが、真言密教の空海でした。空海が書いた『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』によれば「五大にみな響きあり」とあり、地水火風空の五大元素は宇宙のすみずみまで波打ち、生成変化し、揺れ動きながら多様な「妙音」を奏でていると説きます。さらにその「妙音」は意識と意志が関わるときに「声」が生じ、その「声」が「物の名」を表すと「字」となる。これを空海における「声字実相」の概念と呼びます。

「響き」→「声」→「名」→「字」→「実相」  【声字実相の概念】

◆「音(声)」は「気」と同じはたらき
なにやら難しい話になりましたが、要は「お経」「音楽」もしくは「朗読」などを聴いて、まさに魂が揺さぶられるといった状況は、「音(声)」の響きが「妙音」を奏でることによって「こころ」と「身体」がまさに共振を起こして一体となった「心身一如」の状態といえます。つまり「音(声)」の存在は、実は「気」のはたらきと同様に、「こころ」と「身体」、心理と生理がせめぎあう場、波うちあう接点であると同時に、自己と他者とを架け合わし交通させる媒体でもあるのです。

       「こころ」⇔「音(声)」⇔「身体」 
        「心理」⇔「音(声)」⇔「生理」        
        「自己」⇔「音(声)」⇔「他者」  

音(声)であれば、すべてがそうした媒体としてのちからを発揮されるわけではもちろんありません。音(声)が「こころ」の乗り物として作用するときにこそ、そのちからが発揮されるということ。つまり、音(声)によって「魂が揺さぶられる」もしくは「感動を与える」度合いは、芸術や宗教の世界ではその真価を評価する目安でもあり、音(声)が、いわゆる「霊妙な音(声)」を為すときにこそ、深層の魂を動かすといえるのかもしれません。

※「大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)」:曹洞宗の他、臨済宗でも唱える代表的な「お経」(You Tube で検索すれば読経を聴けます。)
※鎌田東二『神界のフィールドワーク』ちくま学芸文庫(99年)
鎌田は「霊妙な声」をもった歌手としては、戸川純(特に「蛹化の女」)や英国の歌手ケイトブッシュなどを挙げています。
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