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第86話:「桜の木に気をかけなはれ」



「桜が散るとまた桜の一年が始まるもんです」
とTVのインタビューに答えて話すのは、京都の桜守(さくらもり)十六代佐野藤右衛門です。
咲いているだけが桜ではなく、散っては葉桜になって実を結び、夏の盆が過ぎると幹が成長し、秋には紅葉し、冬にはじっと新芽の準備をする、そのすべてがあってこそが桜の一年。と強調します。

そこで、桜とどう向き合うかについて、
「花見が終わっても散歩のついででいいから、桜の木に気をかけなはれ、そうすると桜もきっと応えてくれるもんですわ」
と教えてくれます。

咲いているだけが桜ではない、という指摘は耳が痛いほどに理解できます。春になれば花見に浮かれるだけで、ほかの季節の桜に思いを馳せることは確かになかったこと。秋になって桜の紅葉が「きれいだ」と気づいたのは、恥ずかしいかな、ここ数年のことでした。

佐野藤右衛門の話からは、桜を通して「人と自然は共生している」ということがよく分かります。さらに桜守が「木のこころ」を読みとって適切に手を加えることと、治療家が「身体とこころ」を診て治療することには、なにか共通した「眼差し」があるようにも読み取れます。なぜなら、桜に四季折々の顔があるように、人の「身体とこころ」も、季節に感応しながら変化してゆくものだからです。

佐野藤右衛門の『櫻よ・「花見の作法」から「木のこころ」』(集英社文庫)を読んでみました。章ごとのタイトルがとても粋です。その一部を紹介すると、

「人知れず咲く山桜が最高の花見」
「花見は一人でするもんや」
「姥桜こそ、美しい」
「自然に対してもっと五感を働かせ」
「あんたの都合で桜は咲かへん」
「桜に狂い咲きなど絶対にない」

とこんなふうに、興味をひかれる内容が続きます。
佐野藤右衛門の語りには職人(名人)ならではの直截簡明な小気味よさがあり、しかも「桜」の領域を越えるほどに示唆に富んだ深い洞察に溢れています。

※佐野藤右衛門『櫻よ・「花見の作法」から「木のこころ」』集英社文庫(04年)
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